「死」を問題にする時と「死」が問題になる時
「死」を問題にする時
「死」を問題にする時には、私たちはいろいろなことを言うことが出来ます。「あのような死に方はしたくない」とか「あれは幸せな死に方だった」とか「人間はみんな死ぬものだよ」とか言います。しかし、「死」が問題になってくる時、つまり「自分の死」が問題になってくると、何も言えないし、他人の助言も何も聞こえなくなります。「なぜ、自分は死ななければいかないのか?」という思いでいっぱいになることでしょう。
でも、私たちはみんな、明日生きている保証は誰にもないのです。いつ死ぬのかは分からないのです。にもかかわらず、私たちはみんな平気な顔をして生きています。
先日、スキー場へ行く夜行バスが長野県の軽井沢町で事故を起こして、12人の若い大学生と運転手2人が亡くなりました。亡くなった方々はみんな、自分が死ぬということは夢にも思っていなかったでしょう。
私たちは、みんな死刑囚と同じ境遇にいるのです。いつ死刑が執行されてもおかしくない状況で毎日を生きているのです。
「死」が問題になる時
私は時々、死について考える時、自分の人生の意味について考えます。「自分の人生の意味って何だろう?」とか「なぜ、あの人との出会いがあったのだろうか?」とか「なぜ、あのようなことが起こったのだろうか?」といったことを考えます。何か自分の人生の中でいろいろなことが繋がっているような気がするのですが、どういった意図や意味があって繋がっているのだろうか?と考えます。「葉っぱのフレディ」の中で、フレディがダニエルに聞きます。
「ぼく、死ぬのがこわいよ。」とフレディが言いました。
「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。
「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。
でも考えてごらん。世界は変化をし続けているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは 春が夏になるとき、こわかったかい?緑から紅葉するとき こわくなかったろう? ぼくたちも変化し続けているんだ。 死ぬというものも 変わることの一つなんだよ。」
変化するって自然なことだと聞いて フレディはすこし安心しました。
<中略>
そうなると 春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生には どういう意味があるのでしょう。
「ねえ ダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか。」とフレディはたずねました。
ダニエルは深くうなずきました。
「ぼくらは 春から冬までの間 ほんとうによく働いたし よく遊んだね。 まわりには月や太陽や星がいた。雨や風もいた。 人間に木かげを作ったり 秋には鮮やかに紅葉して みんなの目を楽しませたりもしたよね。 それはどんなに 楽しかったことだろう。 それはどんなに 幸せだったことだろう。」
人生の意味とは?
すべての人生には意味がある。どんな人もいろいろな経験をします。それが、その人の人生の意味でしょう。人生の中の出来事がどのように繋がるのかは、多くの人は分からないと思います。分からないまま死んでいきます。
きっと私もどれだけ考えても、自分の人生で起こったことや出会った人が、なぜ起こったのか、なぜ出会ったのか、分からないまま死んでいくでしょう。
今までは、私は頭で(理性)でそれらの繋がりを解明しようとしていましたが、これからは気功(気)を通して感覚(直感)で繋がりを捉えようと考えています。
私の人生にどのような意味があるのか、何となくでもいいですから、何か感じることが出来れば、この世の中で生きることがもっと充実するような気がします。
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